つまり、わからないのだ。

現実を前にしたときに人々がとることができる行動は、可能性を否定しきれない悪影響から身を守る目的でその場から避難をするか、

安全だと断定する専門家を信じてその場での生活の再建に取り組むかのどちらかしかない。その場に止まって生活再建を選択した人々にとっては、現実に起きている原因がはっきりしない症状や現象を放射能と結びつけて取り上げられて大きく報道されることにはとてもナーバスになるのは、ある意味当たり前の感情と思える。
自らの活動を邪魔するものでしかないのだから怒りの感情が示されることにもなろう。
一方、放射能の影響を疑う人たちにとっては、この問題を広く知らしめて警告を発することが安全を確保するための必要情報だと考えるだろう。
当然、情報を隠す行為は犯罪的とすら考えることになる。私は、科学がこれまで内部被ばくの影響をあいまいにしてきた責任が、こうした二つの見解がまったく相いれないで対立してしまうという問題をいま日本で引き起こしてしまっていると考えている。

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